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南海沿線にある漁港および周辺地域の魅力を伝えるウェブマガジン

泉佐野発 伝説の漁師が見つめる
日本の漁業 (前編)

2015.08.31

最寄り駅:南海本線 泉佐野駅

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南海本線「泉佐野駅」から大阪湾側に向かうエリアには、江戸時代に全国の海路の中継基地として栄えた地域がある。「佐野町場」と呼ばれ、漁業・廻船業・醸造業などが集まり、豪商も多く輩出したそうだ。

迷路のように入り組んだ街路には現在も立派な木造民家が建ち並び、独自の町人文化を発達させたかつての面影を色濃く残している。

駅前商店街では、氷を敷き詰めた台の上でさまざまな地魚を販売する鮮魚店や、香ばしい香りを漂わせながら、焼きアナゴを販売する店などが今もなお軒を連ねており、大阪ではもう見かけることが少なくなった浜の風景に出会うこともできる町である。

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そんな旧市街を抜けた場所に位置するのが佐野漁港であり、この佐野漁港を拠点に漁業を行っているのが泉佐野漁業協同組合だ。組合員の数はおよそ100名。底引き網漁の伝統を受け継ぎ、現在もその漁法では大阪府下一番の漁獲高を誇っている。

そして、この漁協を取りまとめているのが高倉智之(たかくら ともゆき)組合長。48歳という若さでありながら、漁師として39年のキャリアを持つ豪傑である。

10歳の頃から漁師一筋

高倉さんは父親の後を継ぐ4代目の漁師で、なんと10歳の時に漁師の仕事を始めたそうだ。とはいっても自分から進んで漁師になることを望んだわけではない。子供時代、相当なやんちゃ者だった高倉さんの将来を心配した父親に、無理矢理船に乗せられたことがきっかけだったという。

 “親父は、僕を野放しにしといたらろくでもない奴になると思ったんやろうね。ある日突然、首根っこをつかんで船に乗せられて「自分で舵を取ってみろ!」と言われてね。こっちも、魚ぐらい簡単に獲って来たるわい!って、ケンカ腰で沖に出て行ったのが始まりやね。”

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しかし、高倉さんが想像していたほど漁は簡単なものではなく、魚がまったく獲れない日が続いたそうだ。

 “昔は今みたいにGPSもないし、漁師は「山立て」といって、山を見て位置を確認しながら船を操るのが当たり前やった。でも、いざ沖に出たら船が潮で流されて、自分がどこにいるかがわからへん。ちょっと移動するだけで水深が一気に深くなって漁の網も届かへん。あの時の悔しかった気持ちは今でも忘れられへんなぁ。”

自然を前に、自分が何もできない事を思い知らされた高倉さんは、持ち前の負けん気の強さをバネに漁の世界へとのめり込んでいく。自分のいる位置やその場所の海底の深さを徹底的に頭に叩き込み、狙う魚の習性についても研究を続けた。漁が終わるとすぐさま他の漁港の漁師仲間と情報交換をし、さまざまな知識を得ることも欠かさなかったという。

そして22歳の時。高倉さんは佐野漁港のみならず大阪湾内の漁師たち誰もが認める、底引き網漁でトップの腕前を持つ漁師となった。大阪湾内で個人別年間水揚げ量1位という記録を今もなお保持しており、その実力を凌ぐ漁師がまだ現れていないというから、ただただ「凄い!」の一言である。

伝統の底引き網漁を受け継いで

大阪湾の海底部分には豊富な種類の魚が生息しており、年間を通じておよそ30種類ほどの魚が獲れるという。そんな海底部分をターゲットに漁を行うのが底引き網漁であり、泉佐野漁協では、石ゲタ網と板びき網、2種類の網を使った漁法が行われている。

石ゲタ網は、大きな石に爪を取り付けた「石ゲタ」で海底をひっかき、驚いて出て来た魚介を袋網で捕獲する漁法。板びき網は、2本のロープに結びつけられた開口板で網の口を開き、海底付近の魚を捕獲する漁法である。

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どちらも漁船が一艘ずつ単独で行うものなので、いやがうえにも漁師たちの競争心はかき立てられる。漁のため船が港を一斉に出て行く時は、その気迫を感じずにはいられないそうだ。

その一方、漁は命の危険とも背中合わせ。誤って海に落ちてしまうこともあれば、船上で石ゲタを支える棒やロープを操作するウインチのアームが突然折れて、漁師の方へ凶器となって飛んでくることもあるという。

 “大漁や安全のために「験かつぎ」をする漁師も多いよ。僕は絶対に汚れた船では漁に出ないようにしてる。住吉大社さんにもしょっちゅうお参りに行くし、毎年正月には金比羅山に出かけて、お札にご祈祷をしてもらうしね。今まで大きな怪我もなく、いろんな事をうまく乗り越えてこられたのは、そのお陰かもしれへんね。”

浜でケンカが絶えなかった昔に比べ、今の漁師たちはとても穏やかになったという。しかし、見た目の印象は変わっても、ライバルと向き合う熱い思いや、命がけで漁に出ることへの覚悟からは、昔と少しも変わらない「漁師魂」が伝わってくる。

豊かな漁場だった1990年代

佐野漁港には、関西国際空港建設のために移動を強いられた経緯がある。もともとあった佐野漁港は埋め立てられ、その広大な埋立地の上、海に面した場所にあるのが現在の佐野漁港である。

漁業に対する補償問題など紆余曲折はあったものの、空港の建設が進む1990年頃の佐野漁港はまだまだ好景気に湧いていたそうだ。

 “空港の建設で、もう漁の時代は終わったと考えて土木の仕事に移った人が多くてね。漁師の数が一気に減って、魚の水揚げ高も少なくなると、逆に今度は魚の単価が上がってきた。だから漁師として残った者の収入は結果的に増えることになったんやね。”

その頃大阪湾にはまだたくさんの魚がいて、網を入れると面白いように魚が獲れたと高倉さんは話を続ける。

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 “僕たちが若い頃は、大卒で働く同世代の人と同じぐらいの収入が見込めたからね。当時はバブルが弾けて大騒ぎやったけど、漁師のバブルは弾けへんかった。それぐらい漁師の景気は良かったよ。”

しかし、そんな好景気も1990年代の終わりが近づいた平成10年頃をピークに、暗雲の時代へと突入していく。大阪湾の魚が減少し始め、漁師さんたちの収入はどこまで下がっても底が見えない状態になっていった。

(→後編に続く)

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泉佐野漁業協同組合

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